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伊吹(いぶき)は、日本海軍の航空母艦である〔#達昭和18年4月(1)p.9『達第七十號 呉海軍工廠ニ於テ建造中ノ軍艦一隻ニ左ノ通命名セラル|昭和十八年四月五日 海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦 伊吹(イブキ)』〕。改鈴谷型重巡洋艦の1番艦であったが、建造途中に改設計され、航空母艦として建造されたが未完成のまま終戦を迎え〔#主要々目及特徴一覧表p.11、#海軍造船技術概要p.1601、『摘要(特徴)|鈴谷型巡ヨリ改造ノ中型空母。飛行甲板 同長空母ニ比シ長ク(205m) 塔型艦橋ヲ有ス。機銃ノ反対舷射撃水平ヨリ7°マデ可能。工事簡易化ノタメ 1.格納庫一段 2.魚雷調整所ナシ 3.爆弾軽質油搭載量ヲ制限 4.最上甲板ハ縦業式構造 5.飛行甲板格納庫壁ハ溶接ブロック式トス 6.構造簡易化ニヨリ-9000工数 艤装簡易化ニヨリ-44000工数』〕、1946年(昭和21年)解体処分された。艦名は「伊吹山」による〔#聯合艦隊軍艦銘銘伝pp.79-81。〕。本艦の候補艦名としては、他に『鞍馬』があったという〔片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9、p78。 遠藤昭による〕。 == 建造 == 元は最上型(鈴谷型)重巡洋艦の準同型艦(改鈴谷型重巡洋艦)として、太平洋戦争直前の昭和16年度戦時建造計画(マル急計画)において仮称第300号艦として計画された〔#戦史叢書海軍戦備(2)24頁『巡洋艦伊吹の改装』〕。重巡として完成した場合の性能は、公試排水量13890トン、速力35ノットであったという〔#戦史叢書海軍戦備(2)104-105頁『巡洋艦伊吹の航空母艦への改造計画』〕。完成を急ぐために鈴谷型の設計を流用しつつ、若干の修正を施す〔#日本空母物語291-292頁〕。鈴谷型の魚雷発射管(3連装×4基)を、伊吹型では4連装×4基に強化〔。無線空中線を延長と航空機運用のため、後部マストを四番砲塔直前に移動した点が外観上の相違点となった〔。「第300号艦」は1942年(昭和17年)4月24日に呉工廠で〔#S1701呉鎮日誌(8)p.36『二四(天候略)四.三〇〇號艦起工式』〕、同型艦の「第301号艦」は同年6月1日に三菱重工業長崎造船所で起工された〔#戦史叢書海軍戦備(2)32頁『二 マル急計画の修正』〕。 しかし、日本海軍は1942年6月5日のミッドウェー海戦で大敗して主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失、急遽航空母艦の急速大量建造を行うことになった(昭和17年6月30日決栽、官房機密第8107号、航空母艦増勢実行ニ関スル件仰裁)〔#戦史叢書海軍戦備(2)16頁『航空母艦緊急増勢』〕。同日附の軍令部商議による「既定軍戦備計画の修正」において「第301号艦」は建造中止(同一船台で雲龍型空母「天城」建造)〔。「第300号艦」は『速やかに進水せしめ工事を一時中止』と決定した〔。 元海軍造船士官で艦船研究家の福井静夫によれば「第300号艦(伊吹)」は水上偵察機搭載の中止、魚雷発射管を島風型駆逐艦「島風」の零式5連装魚雷発射管と共通にする等の設計変更を行いつつ、工事を続けたという〔。1943年(昭和18年)4月5日、命名とともに一等巡洋艦として登録〔#内令昭和18年4月(3)p.30『内令第六百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十八年四月五日海軍大臣嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |伊吹| (以下略)』〕。5月21日、高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮、海軍大佐)臨席のもとで進水した〔#高松宮日記6巻292頁〕〔その後、艤装工事もある程度進捗していたとの報告も有る。〕。機関を搭載せずに進水し、艦尾にバラストがわりの水を入れて船体の折れを防いだという〔。同日附で舞鶴鎮守府籍〔#内令昭和18年5月(6)p.12『内令第千一號 軍艦 伊吹 右本籍ヲ舞鶴鎮守府ト定メラル|昭和十八年五月二十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』〕。 だが前述のように進水後の工事中止はすでに決定されており、「伊吹」は呉工廠魚雷実験部沖(烏小島沖)に繋留放置された〔#日本空母物語292-294頁「(2)空母への改造」』〕。艦政本部は「伊吹」の有効利用について、苦心しながら研究を続けていたという〔。缶室や機械室区画を半分として残部分に補給用重油タンクを増設した艦隊随伴型高速給油艦の他、水上機母艦、高速輸送艦等への改造が検討される〔。 その頃、アメリカ海軍は重巡洋艦以上の艦体を持つクリーブランド級軽巡洋艦を〔クリーブランド級軽巡(基準排水量)約12000トン。古鷹型重巡(基準)8700トン、高雄型重巡(基準)10000トン、最上型重巡(基準)11200トン〕軽空母へと改造、インディペンデンス級航空母艦として続々と建造していた。1番艦「インディペンデンス(旧アムステルダム)」は1942年(昭和17年)8月22日進水、1943年(昭和18年)1月14日竣工。米海軍の動向は日本海軍も察知していた〔#米超弩級戦艦進水p.1『米海軍省発表=米海軍でも今日までには一隻もなかった超弩級戦艦一隻が米東岸の海軍造船所で今週進水する予定である。(中略)又元来巡洋艦として建造中として建造中であった航空母艦一隻が東岸の某造船所で進水した』〕〔#米国内○軍事問題p.1『六.軍事問題◎巡洋艦、商船ヲ航母ニ改造(サクラメント・三月十日二十三時十五分)・・軍事消息通ハ今年末頃マデ米国ハ恐ラク世界最強ノ海軍航空隊ヲ有スルコトニナラウト観テヰル、巡洋艦ヲ改造シタ航空母艦九隻ガ近ク就役スルガ外に商船ヲ輸送船団用空母トシテ多数改装中デアルト・・』〕。これに影響される形で、日本海軍は1943年(昭和18年)8月に巡洋艦「伊吹」の軽空母改造を決定した〔。 1943年(昭和18年)11月1日、第300号艦(伊吹)の佐世保海軍工廠での改造と、昭和20年3月末の完成予定が通知される〔#S1811佐鎮日誌(3)pp.23-25『一日海軍大臣(宛略)官房機密第五五三三號 第三〇〇號艦艤装ノ件訓令 佐世保海軍工廠及第二十一海軍航空廠ヲシテ首題ノ件左記ニ依リ施行セシムベシ』〕。「伊吹」は潜水母艦「迅鯨」の曳航によって佐世保に回航されることになった〔#S1811佐鎮日誌(5)pp.23-24『十八日一三二〇佐世保鎮守府司令長官(宛略)一.第三〇〇號艦回航豫定左ノ通(以下略)』〕〔。択捉型海防艦「壱岐」に護衛された2隻(迅鯨、伊吹)は〔#S1809呉鎮日誌(3)pp.31-32『十八日二一〇四呉防戰|十八日二三四五 壱岐(呉鎮)(迅鯨)(外)|一.伊吹(迅鯨曳航)二十一日〇七〇〇六連發佐世保回航ノ豫定/二.壱岐ハ二十日中ニ六連ニ回航迅鯨艦長ノ指揮ヲ受ケ右ニ對スル對潜警戒ニ任ジ迅鯨、六連歸着迄同艦ノ對潜警戒ニ任ズベシ』〕〔#S1806呉防戦(9)pp.11-13『(四)麾下艦船部隊行動』〕、11月22日佐世保到着〔#S1811佐鎮日誌(1)p.30『註 伊吹ハ呉工廠ニ於テ進水セルモノヲ迅鯨之ヲ曳航十一月二十二日佐世保ニ入港佐世保海軍工廠ニ於テ艤装工事中』〕。ただちに佐世保海軍工廠にて空母改造工事が再開された。しかし、重巡洋艦としての工事がかなり進んでいた船体を無理に空母として転用したため、主砲塔などの撤去工事から行わなくてはならなかったことや、佐世保工廠が他の艦船の建造(伊吹の佐世保到着時、阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧、同型4番艦酒匂《第135号艦》建造中)〔や修理のほうに力を入れなければならなかった為に工事はあまり進まず、予定の工期から大きく遅れ続けた。 1945年(昭和20年)になっても「伊吹」は建造中であった。更なる戦局の悪化に伴い物資の調達に苦労し、さらに制海権の喪失で作戦活動に従事する見込みもなくなっていた。日本海軍の空母機動部隊は前年のマリアナ沖海戦とレイテ沖海戦で壊滅し、残存した空母「隼鷹」や「龍鳳」、竣工した雲龍型航空母艦1番艦「雲龍」や大和型戦艦改造空母「信濃」等は輸送任務に投入されるか、あるいは停泊中に空襲を受け、消耗していった。 1月20日附で空母「龍鳳」艦長松浦義大佐が本艦艤装員長に任命される。 だが2月25日附で松浦艤装員長は軽巡洋艦「大淀」艦長へ転出。佐世保海軍港務部長の清水大佐が伊吹艤装員長を兼務することになった〔。 3月16日、空母「伊吹」の工事は進捗率80%で中止〔〔。4月2日には艤装員事務所も撤去〔昭和20年4月11日付 秘海軍公報 第4981号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070504500 で閲覧可能。〕。その後は終戦まで港内に放置された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊吹 (空母)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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